北校舎のミキ 番外編
ティル・ナ・ノーグ~ tir-na-n-og ~
written by 落合美雄
「あちぃなぁ……」
私は思わずそう呟き、重たい体から繰り出していた足を止め、恨めしげに空を見上げた。
私にこれだけ不快な思いを抱かせている夏の太陽は、恨みを込めた私の視線など何処吹く風で、碧く茂った桜の葉の向こうに隠れている。
見上げた私は怒りのやり場にも困り、桜の樹で旺盛に産み落とされる蝉時雨を浴びせられて、更にイライラを募らせた。
「ああっ、夏なんて嫌いだぁ」
言ってもしょうがないことが次々に口をついて出てくる。
私は、ハアッと大袈裟に一つ溜め息をつくと、再び正門から校内へ続く桜並木の坂道を上がり始める。坂もまだ半ばというのに、ブラウスの背中はすっかり汗で濡れている。濡れ羽色のジャンパースカートも、夏の光には暑苦しくて鬱陶しい。
この坂は思いの他急だ。そのため運動部がランニングのコースとしてよく使うのだが、さすがに今日はそんな殺人的な姿はない。この暑さの中でランニングなんてしたら、確実に三人は熱中症でブッ倒れるはずだ。
私の通う村雲学院は、県内でも最も山と海が近づいた狭い街・氷取山の小高い丘の上に建っている中高一貫教育のカトリック系私立校だ。氷取山は風光明美と言えば聞こえはいいが、その狭い街には、村雲学院の他にも私鉄の駅や寺院が建つなど、いろいろなものがギュッと押し込められている。その上、夏場はとてつもなく暑く、潮が引く日中は風はそよとも吹かなくなり、海から上がる水蒸気と、山が吐き出す植物たちの湿った息が滞留して、ジメジメとした熱気に街全体が包み込まれてしまうのだ。
それだけ暑いのなら、もう少し涼しげな恰好で登校すればいいと言われるかもしれないが、そうもいかない。村雲学院は厳格なカトリックの教えを取り入れたお嬢様学校で、登校の際は必ず制服を着用と決められていた。
それは本当に厳しくて、運動部員がジャージや何かで登校しようものなら、即停学になってしまう。街全体が「村雲はお嬢様学校」という目で見ているので、バレなきゃいいが通用しないのだ。少しでもそうした大人たちの意に沿わない素行が見受けられれば、即刻街全体で問題になってしまう。
スカートをパタパタさせて、風を送るなんてもってのほか、ブラウスのボタンだって、しっかり止めておかないとすぐに不良扱いなのだ。窮屈といったらない。
坂の上に東校舎の昇降口が見えてくると、蝉時雨の向こうに少女たちの歓声が微かに聞こえてきた。校舎が邪魔していて見えないが、講堂でバスケ部やバレー部が練習をしているようだ。村雲学院の講堂はかなり昔に造られたものなので、クーラーなんてものはない。きっと鉄扉をすべて開け放っているに違いない。
吹奏楽部の奏でる楽器の音色も聴こえてきた。今日は音楽室ではなく、パートごとに校内に散って練習しているようだ。不規則な音色がそこかしこから聴こえてくる。
夏休みとはいえ、学院は休んでいないようだ。
昇降口を入り、下駄箱から上履きを取り出して履き替えると、私は右手に進む。東校舎と北校舎が繋がった角に木造校舎へ繋がる連絡通路の鉄扉がある。
体全体を使って重い鉄扉を潜る。先程上ってきた正門からの道が、目の前を通り校内の奥へと続いている。その先には講堂と修道院、そして聖堂がある。道を横切り、木造校舎に入ると、耳をついていたさまざまな音が一気に遠のいた気がした。あれほど私を苦しめていた暑さも、この中ではさほど気にならない。
床板をギシギシ軋ませながら、廊下を進んだ。一階には文化部の部室が三つ並んでいる。私が目指すのはそのちょうど真ん中の部室……文芸部の部室だ。
今日はこれから、文芸部の発行する文集『むらくも』の編集会議がある。『むらくも』は学院創立以来年三回、各学期毎に発行される文集で、今年の第一号が夏休み明けに発行されるため、この夏休みの間にそれぞれ原稿を書かなければならない。
みんなもう来ているかな?
そう思って木扉を開けた。
部室はしんとしていた。しかし正面の木枠の窓は開け放たれていて、微かに爽やかな風を迎え入れている。誰だかはわからないが、部室へ顔を出した人間がいることは確かのようだ。部屋の中央を占めている木机の上には、さまざまな原稿と過去に発行した『むらくも』が堆く積み上げられている。
「しょうがないなあ、誰も片付けないんだから」
私は呆れてそう呟くと、バッグを椅子の上に置き、とりあえず手近にあった『むらくも』を数冊まとめて取り上げた。
壁一面に据え付けられた大きなスチール棚に向かい、戸を開くと、数十年分の『むらくも』がズラリと収められている。ポッカリと空いた場所に、取り上げた文集を仕舞う。
「うう~ん」
突然、小さな唸り声が聞こえて、私は思わず飛び上がって驚いた。
ソッと振り返る。耳を澄ますと、微かに寝息のような音が聞こえる。
「誰?」
聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう呟き、私は窓辺へ寄っていった。
ヒョイッと木机の影を覗いてみるが、そこには誰もいない。
「?」
もう一度、耳を澄ます。
やっぱり寝息は聞こえた。それも、もっと窓の……。
私は「?」と首を傾げながら、窓に寄った。
窓から外を見ても、寝息の主はいない。フッと下を見下ろして、私の胸はドキンと跳ね上がった。そこに、私はこの世で最も愛おしいと思う寝顔があったからだ。
彼女は気持ち良さそうに眠っていた。膝を抱え、ちょっと微笑んでいるような表情を浮かべ、木造校舎の外壁に背中を持たせかけている。校舎の傍らに立つ銀杏の木が影を落とし、彼女の白い肌を夏の強い陽射しから守っている。
何だか歌っているみたい。
そんなふうに思えて、私は彼女の寝顔を見ながら微笑んだ。そう思ったのは、彼女の夢が「歌を唄うこと」だからだ。
「内緒だよ」
そう言って、彼女がこっそり教えてくれた。
歌手になるという彼女の夢は、私たち二人だけの秘密だ。そして、それは私の夢になった。彼女の歌声をいつかきっと、最高のステージで聴く……必ず叶う。私はそう思っている。
彼女は目を覚ましそうになかった。私も彼女を起こす気はない。ただただ彼女の寝顔に見とれていた。
ふと、私の胸を熱い何ものかが充たした。
胸が苦しい……。
その苦しさが何なのか、私はよく知っている。
恋……。
その言葉を思った途端、淋しさが込み上げた。
伝えたくても伝えられないこの思い……すべてを壊したくないから、決して口に出してはいけないこの思い……胸が更に痛んだ。
乱れのない彼女の寝息が堪らなく憎くなった。
つい目と鼻の先で、私がこれほど身を焦がしているというのに、何て安心し切った顔で眠っているのだろう。
私は堪らず身を乗り出した。
彼女が目を覚まさないことを祈った。
ソッと顔を近づける。何の匂いだろう? 甘い香りがした。
ひっくり返しになった彼女の顔も、何にも増して愛らしかった。
目をつぶった。どうすればいいかなんてわからない。初めての経験なのだ。
暖かな感触が唇に触れた。
ほんの一瞬だけ、それだけで充分だった。
恐る恐る目を開けると、彼女は目を閉じたままそこにいた。
彼女から目を離せない。
私……。
唇を指先で触れてみた。
熱い感触が残っていた。
込み上げてくる思いが言葉になろうとするのを、私は必死で抑え込んだ。
どのくらい、私は彼女の寝顔を見続けていたのだろう?
長い睫が微かに震えたかと思うと、彼女はゆっくりと瞳を開いた。
「ああっ……」
彼女の瞳の中に、ゆっくりと生気が戻ってきた。
「目が覚めた、真奈美?」
「う、う~ん」
私の問いかけに答える代わりに、彼女は……真奈美はその場で大きく伸びをした。
「いつの間にか寝ちゃったんだ、私」
「ぐっすりね。全然起きないんだもん」
「ゴメンゴメン」
真奈美は笑って立ち上がり、スカートをバサバサと払った。
「まだ香織も圭子も来てない?」
「まだ来てないよ。二人が遅いのはいつものことだけどね」
私が言うと、真奈美はアハハハッと笑う。
「あなたはいつ来たの、ミキ?」
「えっ!?」
言われて何故だかドキドキした。
真奈美は何も気づいていないんだよね?
「ついさっきよ。部室に来たら、真奈美が居眠りしてるのを見つけたの」
そう言われて、真奈美は「参ったなあ」という顔で苦笑する。彼女は窓辺から離れ、木造校舎の入口へ歩き出しながら、「間抜けな顔を見られちゃったかなあ」と言った。
「真奈美ッ!」
何故だろう? 私は真奈美の背中を呼び止めた。言わなければいけない言葉など何もないのに、私は心の火照りをまだ抱えていたようだ。
「ん?」
と振り返った真奈美の顔があまりに無防備で、私の胸はこれ以上ないくらいに痛んだ。
言ってしまおうかと思ったけど、やっぱり言えなかった。
私は無理矢理作った笑顔で真奈美を見つめると、
「間抜けな顔をありがとう」
そう言うのが、精一杯だった。
「ミキったら、もう。バ~カ」
そう。私はバカだ……。
蝉の声がいつの間にか、私を包む世界に甦っていた。
* * * *
「一方井ッ!」
声が聞こえたかと思った途端、額にコツンと何物かがぶつかる衝撃を受け、私は「ふふぇっ」という恐ろしく間の抜けた声を出して顔を上げた。
一瞬、今がいつで、自分が何をしていて、どこにいるのか、咄嗟にはわからなかった。
ただ、現国の武井先生が何事か喚いている姿が目の前にあって、頭頂部の薄い先生が顔を真っ赤にしている様子に、ふと「ウインナーみたいだあ」と思い、あはははっと薄く笑ってしまった。
「笑ってる場合じゃないだろう、一方井」
武井先生は呆れたようにそう言うと、右手のチョークで白く汚れた指先でコリコリと額を掻くと、「もういい」と諦めたように私から背を向け、黒板に向かった。
「アンタも大胆な女ねえ、岬……」
すぐ目の前の席に座る池田佳世子が振り返り、足下で砕け散っているチョークに目をやりながら、おかしそうに笑う。
佳世子のあっちこっちに節操なく飛び跳ねた八方美人なくせっ毛を見てようやく、今が五限目の現代国語の時間で、自分が居眠りしていたことに気がついた。途端に、私の周囲を包んでいた様々な音が甦り、再び世界を満たしていった。武井先生が黒板に走らせるチョークの音、芥川について語る解説の声、私の席の左手に開けた窓から流れ込んでくるグラウンドの歓声……。
机の上で組まれた腕を見ると、頬を当てていたであろう部分が赤くなっていた。七月の太陽が机の上を焼けるように照らしている。
南校舎三階の二年四組の教室……窓側の前から四番目の席が私、一方井岬の席だ。
「夢見てた、アタシ」
うっすらと首筋にかいた汗を指先でソッと拭いながら、私はそう呟いた。
「夢?」
佳世子は武井先生の視線を気にしつつ、顔を黒板に向けたまま少しだけ首を傾げて、私の言葉を聞き返す。
「うん、変な夢……。夏休みの夢なの」
「デジャ・ヴュみたいなの?」
「ううん、違うわ」
私は大きく首を振った。
クルリと武井先生が振り返って、こちらを一睨みしたので、私は首を竦めて小声になった。
「全然そんな感じじゃないのよ。だって、その夢にアタシは出てこないのよ。出てくるのはみんな、アタシの知らない人ばかりなの」
「何それ?」
ちょうどタイミングよく、そこで授業終了のチャイムが鳴った。
武井先生は延長することなく、ピシャリと授業を切り上げ、教室を出ていく。
ドッと弛緩した教室内がザワつき、六限目の準備を始める子、友達と手を繋いでトイレに向かう子、待ってましたとお喋りを始める子と、クラスがそれぞれに動き出す。
「どういうことよ?」
そう言って、今度はしっかり話しを聞くわよ、というように体ごと振り返った佳世子に、私は居眠りの間に見た夢の話しをした。
「フ~ン、何だか不思議な夢だね」
聞き終えた佳世子は、腕組みをして唸った。
「本当に知らない人? そのミキさんとか、真奈美さんとかって?」
「ぜ~んぜん。クラブの先輩とか後輩にもいないし、小学校の頃のクラスメイトにだっていないわ。当然、親戚の中にも無し。それにあの人たち、ウチの制服姿だったし、ウチの文芸部だったもの」
「当然、ウチの文芸部にも知り合いはいないわけよね」
念のためというように聞く佳世子に、私は大きく頷いた。
「うん。でもいたとしても変よ。だってあの人たち、木造校舎を部室に使ってたもの」
「木造校舎って昔、正門の坂を上がった右手にあった?」
「そうよ。木造校舎って、アタシたちが中学の二年生の時に取り壊したじゃない。もう三年も前のことだよ」
「う~ん……」
私の言葉に、佳世子は心底困ったようにもう一度、ひと唸りした。
「何だか怪談めいてるなあ」
「やめてよぉ」
佳世子の不吉な言い回しに、私は思わず情けない声を出した。そういうのは、とっても苦手なのだ。
「ゴメンゴメン。そんなつもりじゃないんだあ。でもね、そういう話を聞くと、やっぱり学校の怪談というかさ、学校ってところはこの世界にある『ティル・ナ・ノーグ』なんだなあ、な~んて思っちゃうわけよ」
「『ティル・ナ・ノーグ』?」
「そう。知らない? ケルト神話でいうところのtir-na-n-og……『永遠の青春の国』よ」
「『永遠の青春の国』……」
佳世子の言葉が、私の心を射た。「永遠の青春の国」……tir-na-n-og……『ティル・ナ・ノーグ』……何て素敵な言葉だろう。
「学校ってところはさ、いつでもみんなが青春を謳歌しているわけじゃない。そうして、この学校の、この校舎の、この教室の、この机の住人は、毎年変わっていく。去年の今頃、十年前の今頃、更にその十年前の今頃、この学校には、この校舎には、この教室には、この机には、一体どんな女の子がいたんだろう? この同じ場所で、一体どんなことを考えていたんだろう? そんなことを考えたことない?」
私は考えてみた。今の私のように、ここにたたずむ女の子のことを……。私と変わらない十七歳の女の子……そんな娘が、多分この場所を何人も何人も通り過ぎていった。さまざまな思いと夢と共に……きっと……。
「きっと、そんなたくさんの女の子の思いみたいなものが、この学校には宝石みたいにキラキラと残っているんだよ」
普段なら、佳世子のそんな言葉に私は吹き出していたかもしれない。何おセンチなこと言ってるの、佳世子ったら……普段の私なら、きっとそう言って身を捩らせて笑っていたことだろう。
でも、あの夢を見た後だから、私は素直に佳世子の言葉を聞いた。きっとそう。佳世子の言う通りなのだと思えた。
六限目開始の予鈴が鳴り、佳世子が慌てて机に向き直って次の世界史の準備を始めた。
私は教科書を取り出し、便覧を開いて「大航海時代とは何ぞや」という気分にもなれず、ソッと窓の外へ目を向けて、頬杖をつく。
中学部らしき生徒たちが、体操着姿でグラウンドに駆け出してきていた。体育委員が二人がかりで数個のハードルを抱え、フラフラと体育倉庫の方から歩いてくるのが見える。
ふと、私は指先で唇に触れた。
夢の中でミキが真奈美の唇を奪った感触が、何だか生々しく記憶されているように感じられたからだ。まるで自分が真奈美の唇に触れたように、柔らかで熱い感触が私の唇に残っていた。私自身が、夢の中のミキだったようにその記憶は、はっきりとしたものだった。
唇の感触だけではない。あの時……ソッと合わせた唇を離し、愛らしい真奈美の顔を見下ろした時に、ミキが呑み込んだ言葉……私には、その言葉がはっきりとわかっていた。きっと口にしてしまっては、取り返しのつかなくなる言葉だったのだろう。呑み込んだ時の苦しさが、私には痛いほどわかった。それはもう、自分自身の痛みのように……。
「…………」
その言葉を開放した。私の口から開放してみた。
もういいよね、ミキ? 真奈美さんへ言いたかった言葉……今なら、ここでなら、口にしてしまってもいいよね?
もう一度、私はその言葉を口にした。
「真奈美……私、真奈美を愛してるよ……」
私の耳に聞こえてきた私の声は、夢の中で聞いたミキの声になって、真奈美への思いをようやく結実させた喜びに充ちていた。
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本編情報 |
作品名 |
北校舎のミキ
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作者名 |
落合美雄
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掲載サイト |
オリジナルな小説? - 北校舎本舗 -
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注意事項 |
年齢制限なし
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性別制限なし
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表現制限なし
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連載中
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紹介 |
山と海に挟まれた静かな街・氷取山(ひとりやま)にある私立村雲(むらくも)学院女子中高等学校。近隣ではお嬢様学校で通るこの学校には、全校生徒にはまったくの秘密で生徒会会長と副会長に代々受け継がれてきた或る仕事があった。
「3年4組委員会」と呼ばれるその仕事は、学院で最も古い北校舎の、今では空き教室となった元「3年4組」の教室に現れるという「ミキ」と呼ばれる少女の幽霊を守ること。
その年の春、高校2年生になり、生徒会会長と副会長に就任した松尾一希(まつおかずき)と高田郁(たかだかおる)は、連綿と受け継がれてきた「委員会」の仕事を引き受けることになった。
一方、文芸部の一年生・松岡藍子(まつおかあいこ)はクラスメイトの森山明子(もりやまあきこ)と共に、文芸部に伝わる「伝説の小説」を探していた。小説のタイトルは『北校舎のミキ』。
さまざまな形で、学院に伝わる「ミキ」の存在……でも、その年の「ミキ」はいつもとちょっと違っていて……。
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